なんかな、大学一年の冬に靭帯損傷してから大学二年の一年間の計1年間半程、私、精神的に不安定だったよなぁと思いました。病むまでいってないけど、不安定ではあったよなぁ。
つか、本気で厄年(18歳ですね)に厄を身に受けました。それは後厄(19歳)にも引き継がれ・・・(苦笑)
ここから私のくだらない回想とぼやきが始まりますので・・・しかも、おそらくクソ長い、引き返すなら今です。
大学一年の頃、部活に上手く馴染めなくて、それでもバドが好きだから続けて、そんな矢先に公式試合での怪我。
しかも試合は、高校時代のチームメイトとの超良い試合。1-1の3セット目、6点先取してコートチェンジ、2点程差をつけ相手に追いつかせず。残り5点程、勝利を確信した瞬間反転する世界。
思い出しただけで悔しい。そんで、ここから私は不安定期に落ちてたのかなと思います。
靭帯損傷なんてスポーツやってる者からしたら珍しいことではなくて、誰にでも訪れる可能性がある怪我であり、別に私だけ特別じゃないんです。だから自分は特別だと卑屈になることもない。
病院の先生曰く、なりやすい人となりづらい人とがあるそうですが。
何も分からぬまま病院で手術を言い渡され、何も考えぬままバドがやりたいが為に手術を承諾し、家で冷静になって考えてやっと事の重大さに気付いて、膝の痛みも強く感じて、前が見えなくなって。
それでも、部活で友達がいると思うと頑張れた気がしたのに、その友達・・・あ、二人なんですけど、少なくとも一年近く共にしたにも関わらず、私に相談もなしに部活をやめて・・・。
その瞬間、どこに行けばいいのか分からなくなりました。
その二人以外の部活の人も皆良い人なんだけど、私が一歩踏み出せなかったから、上手く話せてなかったんです。
人との関係ほど身をすり減らすことはないわけで、これから部活に行けんのに、今以上に部活の人と仲が良くなることなんて望めなくて、だから、好きなことを捨てて良い機会だし部活退部も考えました。
けど、忘れられなくて。身を削るようなしんどさや、滝のように流れる汗、無心でシャトルを追いかける身体、その快感、成長する喜び。苦しみも快感も、悔しさも悲しさも、嬉しさも楽しさも、その他諸々の感覚も、おそらくはバドをやらなくては分からない感覚が忘れられなくて、苦しむことを承知で私はその道を選んだと。
あ、もちろん、今は間違ってなかったと思いますよ。
むしろ、やめてたらそれこそ後悔に押しつぶされ、やりたいと願った自分の本心への後ろめたさも相乗し、病んでいったと思います。
そんな感じで私の厄は始まったというわけですね。
そんでまぁ、二週間の入院を必要とする手術日も決定して、不安も大きくなるわけですよ。
そんなこんなで想像以上の身を切るような痛み・・・実際切ってるわけですから間違いじゃないですがね(笑)を乗り越え、始まった入院生活。何が悲しいって学科の友人は誰も何も言ってこなかったということですよ。
その時、一年足らずの友情なんてそんなもんか・・・と頭のどこかで思ったものです。
あ、かといって友人を嫌ったわけではないですよ。皆好きです。
友人が来なかったのは仕方が無いのです。私は実家のある県で入院したので・・・といっても一時間足らずのとこですが、彼女達にとってみれば少し遠い。電車賃もかかる。だからね。その時はそう理解してました。
けど、何の音沙汰もなかったというのは、今思えば悲しいよなと思いました。
でも、入院生活は苦ではありませんでした。
自由に動かない足は苦でしたが、同室に2歳年下の子がいて、その子と仲良くなれましたし、他のおばあちゃん達もいい人だったし。
毎日母は来てくれたし、兄や義姉、高校時代の仲間、いとこやらも来てくれたので。
一番嬉しかったのは、部活仲間の誕生日のメールかもしれません。
その年、ギリギリ退院できなくて、誕生日は病院で迎えました。それと、私の誕生日前日からかな?始まった部活の春の合宿にも参加できなくて、あぁ、これで私だけまた置いていかれる・・・と思ってた誕生日、それ程仲良くもなかった部活の仲間から誕生日おめでとうメールが来て、すごく嬉しかったです。
怪我してから部活にも顔出してなかったし、まさかと思って、ベッドの上で泣きそうになりました(苦笑)
あ、病院では携帯禁止ですよ。私は隠れて使ってました。(いけない子)
あちらからすれば、ただのメールかもしれません。けど、それによって私が復帰後に少し希望を持てたのは確かです。
上手くいくと思いきや、人生そう上手くいかないもので、ここから本格的に不安定になっていきましたとさ。
退院後の自分の足、筋肉が落ち、見るからに怪我をした右足が細くなってました。
絶望と言うと大げさですが、その足を見て一瞬、もう自分にバドは出来ないと思いました。
前が見えなくなって、自分がバドやってた姿が夢のようで、もう自分がプレイする姿が思い描けなくて。
リハビリも通ってたけど、中々戻らなくて、本当に戻るのかと疑ったり。
そこに絡み付いてくる人間関係という困難。やっぱり踏み込めなくて、話せなくて、自分つくること覚えたけど苦痛で。
で、私はわがままな奴だけど、自分の胸の内を話すことが出来ない臆病者で、誰にも相談出来ず一人抱え込んで・・・あ、自分でこういうとアホっぽいですね(苦笑)
で、しまいにゃぁ、朝早く起きて、弁当作って、リハビリ行って、授業の関係上リハビリ即行で終わらせて、その足で学校向かって、授業フルに受けて・・・こんな頑張ってるのに、何で自分の頑張りを誰も認めてくれないのだ、何で私の頑張りをそんな軽く見るのだと卑屈になって・・・なんてたちの悪い。
自分だけが特別なように感じて、それを分かってくれない人を冷たく見て、若かったんだな。自分だけしか見えてなかったんですから。・・・今でもそう変わりないかもしれませんが(苦笑)
自分の口で自分の内にあるものを話そうとしないで、自分を分かってもらおうなんて贅沢なんですよ。
今では客観的にそれを理解できたので、話してないのに、他人から言葉や理解など求めません。
・・・言い方悪いな。話してないのに、自分の胸の内を見せてないのに、他人から何かを与えてもらおうなどと思うことは傲慢だということです。
そりゃぁ、こちらが何も言わないでも与えられれば嬉しいですが、現実的に難しいじゃないですか。無条件で出来るの、親くらいですよ。
それが上手く理解できていなかった大学二年生、週3・4日一日置きにあるリハビリ、ビッシリ詰まった授業、それらに伴う身体的疲労、部活での人間関係、自分の位置、復帰への不安、見えない未来、それらに伴う精神的苦痛、話すこともできず抱え込み、外に出せない苦痛は大きくなり、気を緩めると泣くという不安定な状態に・・・。
まだ復帰できずに参加した夏合宿では、皆が汗を流す姿を毎日目にするわけですから、自分が現在欠陥品なのだと思い知らされ、身体は疼くのに少しでも早く治したいなら求めることは許されず、さらにその時一番気に悩んでいた人間関係が目の前に、もう精神の安定が保てなくて、後輩の部屋で泣くという醜態を晒したこともあります(苦笑)
そんな状態の私の支えたのは何かよく分かりませんが、よくもまぁ、そんな状態で腐るほどの単位取得と筋肉の復活、部活への復帰を果たしたと思います。
それが若さか・・・とも思います。今同じことやれって言われたら無理ですね。
支え・・・分からないですが、少しは分かります。
おそらくはある友人、何も言わないが見てくれてる親、自分の中にあるバドがやりたいというただそれだけの純粋な思い、そういうものが支えの根底にあったのだとは思ってます。
それらを支えにして、がむしゃらに授業受けて、リハビリ行って・・・今思えば、それだけ頑張ったのは、精神的苦痛を紛らわすためであったと思いますが。
とにもかくにも大学二年生の一年、不安定に私は過ごしてたと思います。
今は、部活、まだ一線ありますが、それは私が原因であるし、二年の頃のように関係にひどい苦痛は感じません。以前より断然皆私を受け入れてくれてるし。それが分かるから、皆好き。未だ一線を引いてしまってる自分が申し訳ない。それから慕ってくれる後輩もいるしね。
心の部分の問題で、運動時、膝靭帯損傷用のサポーターは外せませんが、問題なく運動も出来ます。無事引退試合も迎えれたしね。
術後の後遺症もあるし、完璧100%には戻らない足は時に不便でもあります。未だ正座も出来ませんし・・・それは自分次第でどうにかなるようですが。それでも生活には支障ないので。
治療もですね、2月にある診察で最後なのです。
2年次がむしゃらにとった単位のおかげで、3・4年次は凄く楽でしたし(笑)余裕の単位で卒業です!
今何故こんなことを考えたかと言いますと、卒業が近づいてきたということもありますが、それよりも、これまた私の臆病の所為で、大きな壁にぶつかってるからです。
向き合うのが怖くて、卒業だからと逃げて、向き合おうとせず、そんな自分が嫌で、胸に穴を感じて・・・。
あぁたぶん自分はこのまま逃げるのだろうと思うと悔しいけど、やっぱり怖くて、そんな感じでループしてるからです。
でも、これは他の誰にも解決は出来なくて、向き合うも逃げるも自分が決めなくてはいけない。
あぁ、苦痛。
以上、長いぼやきでした。
もしかしてここまで私のくだらない回想及びぼやきに付き合ってくださった方がいらしましたら、私の愛を捧げたい!(いらねぇ)
いや、本気で何かプレゼントしたいくらい感謝ですね!
それでは、ありがとうございました!
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