いつから己の想いに純粋に目を向けられなくなったのだろうか。
いつから己が抱く想いに疑問を投げつけるようになったのだろうか。
いつから己の中にある想いを言葉にするという術を忘れてしまったのだろうか。
あらゆる理由をつけ、理由を正当化することで想いに言葉を投げつけ、否定し、目を逸らし、その存在を認めない。
言葉にすることを恐れ、逃げ、自分の中に止め、想いを殺す。
これが大人になるということなのだろうか。
それならば、大人になどならなくてよかったかもしれない。
純粋に自分の想いに目を向ける子ども達が羨ましい。
想いを言葉にし、投げつけることが出来る子ども達が羨ましい。
「俺、監督の事が好きです」
あぁ、いつから子ども達のような透き通った綺麗な瞳をしなくなったのだろうか。
もう瞳はにごってしまっている。全ての事を純粋に見ることが出来なくなっている。
何が大人だ。
社会での立場、経済力、人生経験、それらを抜いてしまえば、大人はなんて不器用な存在だろうか。
自分が傷つくのを避けるあまり伝えたいことも伝えられず、そのため自分の殻の中でもがき苦しみ、その苦しんでいることさえ他人に伝えられず、そしてまた苦しむ。それは永遠のループ。
ぶつかることをものともせず、自分が傷つくことを恐れながらも立ち向かえる子ども達の方がよほど強い。
例え傷ついても傷ついても彼等は立ち上がる。なんて強い存在なのだろうか。
喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、その他諸々の感情を素直に表すことの出来る子ども達が羨ましい。
「海音寺、そんなことが許されると思っているのか」
全ての感情がその瞳に素直に表れる。
喜びも怒りも悲しみも楽しみも全て。それらが表れるとき、瞳はとても綺麗な色を持つ。
あの瞳をいつどこで濁してしまったのだろうか。
今もまた一つ嘘をつく。
にごった瞳で想いを見た。
想いが叫ぶ。それを否定する。そして痛む胸。胸が痛む音が耳鳴りとなる。
海音寺が自分の中の想いを言葉にして俺に伝えた。
海音寺がその想いを抱いていたことには気付いていた。
海音寺ならその想いと正面から向き合い、それをいつか口にするだろうとは思っていた。
その時俺はどうするだろうかと何度も考えた。
考える結果はいつも同じ。そして結果通りの言葉を俺は口にした。
俺はどうしてその結果に行き着いた。
それは海音寺の言葉を純粋に受け取ってのことだったか。
それは違う。
先ず何を考えた。
自分の立場、社会、世間。
そんな関係のないことばかり考えたのではないか。
だから大人っていうのは不器用なのだ。想いを想いで、言葉を言葉で純粋に受け取れない。
幾度にも変化させ、受け取る。
本当は応えてやりたい。
海音寺が抱いていたものと同じものを俺も抱いている。
だからこそ、海音寺が俺に対しての想いを抱いたことに気付いていたのだから。
だが、応えてやることはできない。
それは自分の為か、海音寺の為か、どんな理由を付け応えないという結果に行き着いたのかそれすらももう分からない。
「・・・・・・分かりました」
瞳が今の海音寺の想いを表す。
その瞳のなんて綺麗なことか。俺が、俺達がどこかに置き忘れてきた瞳。
海音寺はまたすぐに立ち上がるだろう。
傷を傷としてもろともせず、立ち上がる。塞ぎ、その上に新たな想いを抱き、また歩き出す。
それ程子ども達は強い。
大人には出来ないことだろう。現に俺はおそらくこれからこの海音寺への想いを殺すためにもがく。
それはいつまで続くだろうか。いつまでもがき続けなくてはいけないのだろうか。
愛しい、大切にしたいと心から思った相手に想いを伝えられないないなら大人になんてならない方が良かった。
誰が好きで愛しい者にあんな顔をさせるというのか。
海音寺と同じ中学生なら伝えられただろうか。
それは分からないが、少しも伝えることもなく殺してしまうことはなかっただろう。
子ども達にはその力がある。
羨ましい。
この閉じ込めたものを伝える術を俺は今教えて欲しい。
※んと、子どもは不便だ!と子どもの時は思うけど、最近社会に出て思った。
大人の方が色々隠して生きていかなきゃならないなと。
最近、大人になるにつれて言いたいことを言えなくなってきているなと思ったので書きました。
が、いつも通り意味不明な仕上がりに・・・。
これはあくまで私の考えることの一部であり、全てではありません。
子どもだって誰もが純粋だと思ってないし、子どもだって隠さなくちゃいけないことはいっぱいある。
大人だって純粋にものが言える人はいるので。
毎回言っている感じもするが、これもまとめて綺麗にしてメインにしたいかも・・・。
や、悲恋系のメインってないですし、これだともうちょっと長く出来そうなので。
うーん。一度書いてみるかなぁ・・・。
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